今日は映画館で『プラダを着た悪魔2』を観てきた。
前作の『プラダを着た悪魔』は、映画館では観ていない。
でもDVDを持っていて、もう何度も観ている好きな映画だ。
あの映画をよく観ていた頃、僕はアパレルの世界にいた。
だから余計に、ただのファッション映画としてではなく、仕事の映画として、そして自分の人生と重ねながら観ていたように思う。
業界も、性別も、立場もまったく違う。
それでも僕には、ミランダが、当時の自分が見上げていた“圧倒的なカリスマ”の姿と重なって見えていた。
その人がいるだけで、場の空気が変わる。
基準が変わる。
言葉にしなくても、こちらの未熟さを突きつけられるような緊張感がある。
もちろん、ただの理不尽もたくさんあった。
今思い返しても、「それは無理です」と言いたくなるようなこともあった。
それでも、その理不尽さの奥には、その人にしか作れない世界があった。
その人にしか出せない熱量があった。
だからこそ、怖さや戸惑いと同じくらい、強く惹きつけられていたのだと思う。
前作を観ていた頃の僕にとって、ミランダはその“圧倒的なカリスマ”だった。
そしてアンディは、たぶん僕だった。
何もわからないまま、その世界に飛び込んで、必死に食らいつこうとしている。
理不尽だと思いながらも、その人の基準や美意識に圧倒されている。
自分がどこまでやれるのか、何者になれるのかもわからないまま、ただ目の前の仕事に向き合っている。
そんな自分と、アンディを重ねていたのだと思う。
それから約20年が経った。
今回の『プラダを着た悪魔2』も、僕は前作と同じように楽しめたし、好きな作品だった。
ただ、観ながら自分の立ち位置が変わっていることに気づいた。
前作では完全にアンディ側だった。
でも今作では、どこかで自分をミランダ側に重ねて観ていた。
もちろん僕はミランダではない。
かつて見上げていたような、あの圧倒的なカリスマでもない。
そんな大きな存在ではまったくない。
それでも今の僕には、アカイトコーヒーという自分の店がある。
店の空気、コーヒーの味、営業日の安定感、オンラインストアの文章、商品やグッズの見せ方。
そういったものは、少なからず僕の基準や美意識で作られている。
だからこそ、今作を観ながら「引き際」のようなものを考えていた。
自分が作った世界を、どこまで自分で握り続けるのか。
自分がいないと保てないものなのか。
それとも、いつか誰かに受け渡していくものなのか。
そんなことを、映画を観ながらぼんやり考えていた。
カリスマであり続けることは格好いい。
でもきっと、しんどさもある。
自分の基準が強ければ強いほど、周りには理不尽に映ることもある。
そして僕にも、たぶん理不尽なところはある。
自分でもわかっている。
お店を守るため。
味を守るため。
空気を守るため。
そう思いながらも、その中には自分のこだわりや、感情や、譲れなさもきっと混ざっている。
でも、そういう自分を少し笑って見られるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。
『プラダを着た悪魔』という映画は、僕にとってただの好きな映画ではない。
20年前の自分と、今の自分の立ち位置を確認させてくれる映画だった。
前作ではアンディとして観ていた。
今作では少しだけ、ミランダ側から観ていた。
同じシリーズの映画なのに、観る側の人生が変わることで、まったく違う映画になる。
それがとても面白かった。
今日はいい一日だった。
映画を観に行っただけの日ではなく、20年分の自分に会いに行ったような一日だった。